学べよ、さらば開かれん

アラフォーサラリーマンの勉強の記録

方針を変更するならば根拠を明確にしたほうが良い

暑い日が続いています。

体から豚汁が出続けていますが、私は元気です。

皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

今回は仕事をしている中で気になった言い回しがありましたので、記事にしてみます。

 

それは業務連絡の中での上司の次のような発言でした。

「それはAだと思うよ、だってBだからね。」

 

「BだからA」という文章を、結論であるAの部分から伝えるありふれた言い回しです。

 

その時の詳しい内容までは忘れてしまいましたが、たしか、コロナ禍における中小企業への給付金の対象範囲についての話題で出てきたものです。

 「その法人は対象範囲に入らないと思うよ、だってコロナによる影響によって売上が減少した場合って書かれているからね。」

こんなような感じだったと思います。

 

この構文はいろいろな場面で使われます。

「明日は雨だと思うよ、だって天気予報で言っていたからね。」

「今度の先生は厳しいらしいよ、だって先輩が言っていたからね。」

「今年は良い一年になりそうだよ、だっておみくじで大吉が出たからね。」

 

挙げればきりがないのですが、これを使われると「ああ、そうかBだからね、たしかにAだね」と納得させられそうになります。

 

ところで、この構文で導き出されたAという結論ですが、はたしてそのまま鵜呑みにして良いのでしょうか。

 

「Aだと思うよ」の部分はその発言者の意見を表明している部分ですから良いとして、「だってBだからね」の部分は「Aだと思うよ」という考えを客観的に裏付ける事実なりデータなりの補強証拠である必要があります。

 

つまり、「Bという事実がある。そこから思うにAである。」ということです。

Bというある程度合意を得られた事実なりデータなりを前提として、そこからAという結論を導き出せると思うという構文なわけです。

 

この場合に結論のAという意見を採用できるかどうかは、Bという事実からAという結論を導き出した思考過程を納得できるかどうかによります。

 

ところが多くの場合、「Aだと思うよ、だってBだと思うからね。」という構成になっていることが多々あります。

 

つまり、「思うにAである」という意見の裏付けが「思うにBである」という発言者の意見になっている場合です。

 

この場合、導き出された「思うにAである」という結論に納得するには、「思うにBである」に納得しなければなりません。

 

そのためには「だってCだからね」という根拠が必要となりますが、多くの場合その部分までは言及されず根拠があるのかないのか不明瞭なままとなってしまいます。

 

そして、ここで重要なのが、その根拠が時間とともに変化し結論も変化する場合です。

 

事実やデータとしての根拠がある場合には、その根拠が変化したということを共通認識できますので、結論の変化に納得することができます。

 

それに対し、根拠がなく発言者の思い込みから結論を出している場合には、その考えが変化したとしても周囲はその変化に気づけません。そのため方針を場当たり的に変化させる無責任な経営に感じてしまうのです。

 

特に上司などの決定権者が方向性を決めるにあたってこの構文を使用する場合には、そのように思い込みにだけから結論を出していないかどうか、根拠があるのであればそれを明示しているかどうかに注意することが必要でしょう。

 

今回はここまでです。